2011年05月17日
芦田湖オートキャンプ場⑤(福山城)
☆★☆ 2011.4.29~2011.5.3 芦田湖オートキャンプ場へ行ってきました。☆★☆
芦田湖オートキャンプ場①(到着~設営)⇒ こちら
芦田湖オートキャンプ場②(広島城・大和ミュージアム⇒こちら
芦田湖オートキャンプ場③(養老温泉)⇒こちら
芦田湖オートキャンプ場④(DOでパン。場内ご案内)⇒こちら
芦田湖オートキャンプ場②(広島城・大和ミュージアム⇒こちら
芦田湖オートキャンプ場③(養老温泉)⇒こちら
芦田湖オートキャンプ場④(DOでパン。場内ご案内)⇒こちら
誰もいないキャンプ場での不安な一夜が明けて、3日目の朝もいい天気

父ちゃんがまだ寝ていたので、景色一人じめのお一人様カフェを楽しみました。
ゆったりと朝を楽しんでこの日も出かけましたよ~~

どこへ?
もちろん。。。。
城~~~
もちろん。。。。
城~~~

広島県福山城にある福山城(別名 久松城)
福山城は元和8年(1622年)に完成した。新規の築城としては近世城郭で最も新しい城で、備後福山藩の藩庁かつ藩主の居城であった。形式は輪郭式の平山城で、かつては2重の堀や瀬戸内海へ抜ける運河を持ち五重の天守と7基の三重櫓を有する大規模な城郭であった。昭和初期までに城北側にある堀をかねた吉津川以外の全ての堀が埋められ、三の丸は大半が市街地と化すなど遺構の破壊が進み、石垣も概ね本丸と二の丸の大部分と三の丸のごく一部に残り櫓は1基が現存するのみとなっている。三の丸南側はJR福山駅が東西に貫き新幹線や福塩線のホームから間近に本丸を望むことができる。
現存する建造物としては伏見櫓と筋鉄御門(共に国の重要文化財)があり、このうち伏見櫓は福山城の築城時に伏見城から移築されたもので現存の櫓では最古の建築である。天守は昭和20年(1945年)まで残されていたが福山大空襲により焼失している。現在の建物は昭和41年(1966年)に月見櫓、御湯殿と共に復興されたものである。再建された天守内部は福山市立福山城博物館として利用され天守最上階の回縁からは市街を360度見渡せ、晴れた日には瀬戸内海を望むこともできるWikipediaより
福山城博物館公式HPは こちら
私達が車を止めた駐車場側の公園入口にあるお店にいた看板犬君。
頭が大きくて思わずニヤっとしてしまうお顔をしてました。
お城を堪能してキャンプ場への帰り道、たまたま通りかかったこんなお店にも寄ってみたりしました~
何も買わなかったけどね

キャンプ場のすぐ近くのこんなのも見にいってみたり~
橋脚を持たない吊床版橋(つりしょうばんきょう)として世界一の支間長147.6mを誇っているそうです。
(広島県観光HPより)
駐車場から吊り橋までちょっと歩かんとあかんかったんで、橋までは行ってません

行ったとしてもたぶん渡ってないと思うけど~~

一旦、キャンプ場に戻ってランタンの準備とか夕飯の用意をしてから温泉へ。
(4時半頃に戻ったけどすでに管理人の姿なし

キャンプ場から20分くらいかなあ。
宿泊施設もある尾道ふれあいの里
大人 800円と少々入浴料は高め

お風呂も源泉かけ流し湯とか、西日本で唯一のプラズマ湯とかあってもっと早い時間からじっくり浸かってみたいと
思いました。
さっぱりして「今晩も私らだけやねえ~」とキャンプ場に戻ると。。。。
ゲートが開いてる

管理人さんが戻ってきてるのかな?と思ったけど車がない。
私達が温泉に行く時はちゃんとゲートを閉めていったはず。
誰か勝手に入っているのか?
少し不安になったので父ちゃんが車を降りてサイトが見えるとこまで行ってみると。。。。
「誰かいてる。テント張ったはるわ」

この日も予約は私達だけって聞いていたのですが、私達がお風呂に行ってる間に一組のキャンパーさんが来られてたのでした。
明日の為にテントだけ張って帰られるのかな?なんて思って見ていたのですが、どうやら違うよう。。。
そちら側の外灯は元で切られてるから真っ暗だよ~と言ってあげようかと思ったのですが、すでにペグダウンまで
されていたので移動するのも大変そうだしと、結局、一言もお声もかけずでした。
でも、私達以外に一組でもいらっしゃると気分も違いましたよ~~
なんか安心というかホッとしました。
6時半頃になってもまだ薄明るいですね~
お湯を沸かしながらランタンの準備と炭の準備。

この日の夜はお肉焼き焼き

っていうても私の食欲がまだイマイチだったので父ちゃん、一人焼き焼きです。
こうして広島キャンプ最後の夜は更けていったのでした。
まだまだ続くのです~。。。。
2011年05月09日
芦田湖オートキャンプ場②(広島城・大和ミュージアム)
☆★☆ 2011.4.29~2011.5.3 芦田湖オートキャンプ場へ行ってきました。☆★☆
芦田湖オートキャンプ場①(到着~設営)⇒ こちら
GWキャンプ初日は渋滞やらなんやらで到着が遅れてしまったので、設営後はキャンプ場で昼寝をしたりして
のんびり過ごしました。
夕ご飯、父ちゃんは炭をおこしてシシャモを焼きながら焼酎をチビチビ(チビチビ?グビグビか?!)

それ以外は仕入れてきたお寿司やら出来合いのお惣菜で簡単にすませました。
ご飯を食べるころには外にいると寒いくらいに冷えてきたのでレインボーと武井を点火。
夜は少し焚き火も楽しんで早めに就寝。

2日目はお天気が悪くなる予報だったので早目に行動開始。
広島市内に向けて出発~~!! 広島の路面電車、今風ですね~
到着したのは、広島県広島市にある広島城(別名 鯉城<りじょう>)
それまでの毛利氏の居城・吉田郡山城は尼子氏の大軍を撃退した経験を持つ堅固な山城であり、また山陰・山陽を結ぶ場所に位置するため、領土の争奪戦を伴う戦国時代の毛利氏には適した位置であった。しかし、天正末期になり、天下が安定する頃になると、中国地方9か国120万石の太守であった毛利氏に吉田郡山城は政務所としても手狭なものとなり始めた。また吉田郡山城は山間部にあり、商業の中心地としては不適切であったことから、海上交易路である瀬戸内の水運が生かせ、城下町の形成が可能な平野がある海沿いへの拠点を移動すべきという意思もあった。一説には永禄年間(1558年-1569年)の輝元の祖父・毛利元就のころから現在の広島の平野部への築城構想はあったという。
1589年(天正17年)、二宮就辰らの指揮の下、ついに築城が開始された。広島築城は川の中州の埋め立てと、堀の浚渫が初段の大工事となった。城の構造は大坂城を参考とし、近世城郭として築城された。縄張りは聚楽第に範を取っているといわれる。軟弱な三角州地盤に築城したため、石垣の重量を分散させる工夫がなされている。また、堀は三重に巡らされ、馬出を多数備える実戦的な城構えであった。この築城は同時期に進行しつつあった豊臣秀吉の朝鮮征伐の後方基地としての期待もあり、秀吉は築城技術のサポートとして側近の黒田如水を派遣し、自らも建設中に広島城に滞在したという話も残る。
完成当初は当時の大坂城に匹敵する規模の城だったといわれるが、関ヶ原の戦いで減封されて広島を去った毛利輝元に代わって城主となった福島正則による改築があり、築城当時の広島城がどのような姿であったかについての詳細は不明である。
関ヶ原の戦いの後、1600年(慶長5年)に福島正則が毛利輝元に替わって広島城に入城。この時代に、それまで二葉の里付近から城の北側を通っていた西国街道を、城下の南側を通るように付け替えるとともに雲石街道を整備した(一説には毛利輝元時代)といわれ、町人町が拡大した。しかし、幕府に無届けで修築したためそれをとがめられ、二段にしてあった本丸の上段石垣を破却している。これは現在でも確認できる。
結局、福島正則は1619年(元和5年)に改易の憂き目を見ることになり、以降は浅野氏の居城となった。
浅野藩政時代の広島城は内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の広大な城であったが、明治維新後には1911年(明治44年)に外堀が埋められ、さらに原爆の瓦礫で中堀が埋められて現在の規模になった。広島市内の「八丁堀」、「薬研堀」などの地名は堀があった名残である。八丁堀は約8丁(約880メートル)あった東側の外堀にちなむ。また市内の庭園「縮景園」は、元々は城内だった。外堀は南側では現在の相生通りの南半を東西に走っており、現在の紙屋町西交差点あたりに大手門があった。北端は現在の城北通りであり、外堀の水は三篠橋付近の本川(旧太田川)から引いていた。
Wikipediaより
お城見学を終えて次は、父ちゃんが前から行きたいと言っていたところ。
呉市海事歴史科学館 大和ミュージアムです。
中心の大和ひろばには、10分の1戦艦「大和」が展示されています。


展示物や資料などじっくりみてみたいのですが、人が多くなかなかゆっくり見ることができなかったのが残念。。。
隣には、海上自衛隊呉資料館 てつのくじら館
こちらは時間もなかったので見学できなかったのですが、大和ミュージアムもてつのくじら館も今度は平日の
人の少ないときにもう一度、見学してみたいね。と言いつつ呉を後にしてキャンプ場へ戻りました。